2007年03月15日

神とかかし

案山子は、民間習俗の中では田の神の依代(山の神の権現とも言われる)であり、霊を祓う効用が期待されていた。というのも、鳥獣害には悪い霊が関係していると考えられていたためである。


見かけだけは立派だが、ただ突っ立っているだけで何もしない(=無能な)人物のことを案山子と評することがある。確かに案山子は物質的には立っているだけあり、積極的に鳥獣を駆逐することはしない。だがしかし農耕社会の構造からすると、農作物(生計の手段)を守る役割を与えられた案山子は、間接的には共同体の保護者であったと言えよう。


古事記においては久延毘古(くえびこ)という名の神=案山子であるという。彼は知恵者であり、歩く力を持っていなかったとも言われる。立っている神 → 立っている人形、との関連は指摘するまでもないとも考えられるが、下記の通り語源との関係で、明確ではない。
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田にまつわる信仰

田が発祥した中国では、田の神の祭事が行われていたが、早い時期に失われ、今に伝わっていない。

日本では、弥生時代に農耕が伝わったとき、農耕収穫あるいは田に対する信仰が生まれたとされている。各地の神社で執り行われる秋の例祭(いわゆる秋祭り)は、田からの収穫を祭る名残であろうと考えられる。平安時代中期には、田植えの前に豊作を祈る「田遊び」から田楽という芸能がおこり、その後、猿楽や能楽などの諸芸能へと発展していった。

田からもたらされる豊作を祈願する神社としては、愛知県小牧市の田県神社(たがたじんじゃ)が、その豊年祭という奇祭で知られている。

豊穣豊作を祈願する田の神は、国内では地方ごとにさまざまな呼び名と祭り方がある。農神と呼んだり、山の神、土地の神、あるいは水神様と同一視する場合もある。
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稲狩りの機械化

稲刈りの実際の作業は、近年のコンバインの登場によって大きく様変りした。日本では第二次世界大戦後も久しく、鎌を用いて手作業で稲刈りが行われた。稲刈りに使用する鎌は、刃先が鋸になった特殊なもので、イネの茎の切断が容易に出来るよう工夫されている。刈り取られた稲は未だ生しいので天日干しされ、十分乾燥した頃に脱穀を行う。



コンバインは1940年代に初めて登場し、徐々に普及した。稲刈りから脱穀までの作業を一貫して行えるのがコンバインの特徴である。稲刈りから脱穀をまとめて行うが、その間籾の乾燥工程がないので、脱穀された籾は直ちに専用の穀物乾燥機にかけられる。


現在でも、山間地や棚田など大型の農業機械の導入が困難な田んぼ(圃場整備が行われていない千枚田など)では、バインダーとハーベスターを組み合わせて使用するか、もしくは鎌を用いた従来通りの作業方法が採られている。これらの農業機械は、総称して「稲刈り機」とも呼ばれる。



コンバインの普及により作業時間は大幅に短縮されたが、車両後方に排出される藁のくずが皮膚に付着すると、比較的大きな痒みや(人によっては)肌荒れが起きる為、コンバイン搭乗者以外の作業従事者は作業時の風向きに十分注意する必要がある。稲刈りを行っている農家が顔を覆うようにタオルや手ぬぐいを着用しているのは、その痒みを事前に防ぐ為である事が多い。近年は高価ではあるがキャビン(操縦席が密閉されているもの)付きの車両も登場しており、エアコンが搭載されている事も含め、搭乗者の負担は大幅に減少しているようだ。
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2007年03月14日

1994年から

生産調整が強化され続ける一方で、転作奨励金に向けられる予算額は減少の一途をたどり、「転作奨励」という手法の限界感から、休耕田や耕作放棄の問題が顕在化し始めた。

このような状況の中、食糧管理法が廃止されて食糧法が施行され、制度が下記の様に大幅に変更された。

政府の米買入れ目的は価格維持から備蓄に移行。これに伴い、買入れ数量は大幅に削減。
米の価格は原則市場取引により形成。
生産数量は原則生産者(実際は農業協同組合を中心とする生産者団体)が自主的に決定。この際、転作する面積を配分する方法(ネガ配分)から、生産できる数量(生産目標数量)を配分する方法に移行。(農家段階では、生産目標数量は作付目標面積に換算されて配分(ポジ配分)。)(ポジ配分は2004年から本格実施。)
なお、当面は国による配分も平行して行われ、生産者の自主的な生産調整に完全移行する時期は、2006年現在では未定である。
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1970〜1994年

米の在庫が増加の一途をたどったため、政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした本格的な米の生産調整を1970年に開始した。

制度的には「農家の自主的な取組み」という立場を取っているが、転作地には麦、豆、牧草、園芸作物等の作付けを転作奨励金という補助金で推進する一方で、稲作に関する一般的な補助金には、配分された転作面積の達成を対象要件とするなど、実質的に義務化された制度である。また、耕作そのものを放棄することは農地の地力低下、荒廃につながることから、転作面積とはみなされない。

一方、国内各地で生産拡大のための基盤整備事業が行われている最中でもあったため、稲作農家の意欲低下、経営の悪化につながるとして強い反発が各方面であった。その中でも、国の干拓事業によって誕生した秋田県大潟村の入植者が、生産可能面積の取り扱いを巡って長年にわたり国と対立した事件などは特に有名である。

農家によっては、積極的に転作に取り組むことによって農業構造の転換を図ろうとする者もいたが、多くは米を引き続き栽培するためにやむを得ず転作を受け入れるという立場をとった。また、生産調整の導入以降も、生産技術の向上により反収が増加したために生産量はそれほど減少しなかった。

一方で、米の消費量減少には歯止めがかからず、1985年と1994年(それぞれ凶作により米の緊急輸入があった翌年。1993年はいわゆる平成の米騒動の年)を除いては、一貫して転作面積は増加(生産調整の強化)し続けた。

生産調整が導入されて以降、産地毎の転作配分面積に傾斜をつけたり、特定の作物栽培や、転作の団地化を奨励するための金額加算制度を追加するなど、制度は毎年のように変更が加えられ、複雑化した。制度変更の都度、農家の反発、混乱が報じられ、猫の目農政と言われる批判の代表的なものとなった。
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戦後から1960年代

戦後は農地改革により自作農が大量に発生し、食糧管理法(食管法)によって米は政府が全量固定価格で買い上げること(政府米)となっていたため、農家は生活の安定が保証されたことから、意欲的に生産に取り組むようになった。また、肥料の投入や農業機械の導入などによる生産技術の向上から生産量が飛躍的に増加した。一方で、日本国民の食事の欧風化などに伴って、米の消費量は漸減したため、政府が過剰な在庫を抱えることとなった。

もともと、買取価格よりも売渡価格が安い逆ザヤ制度であったことに加え、過剰となった在庫米を家畜の飼料などに処分した結果、歳入が不足し赤字が拡大した。
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戦前の日本における米の反収

戦前の日本における米の反収は、300kg/10a前後と現在の約半分であり、またしばしば凶作に見舞われていた。1933年には作況指数120を記録し、米の在庫が増加したことにより「限反」方針が打ち出された事があるが、翌年東北地方において、冷害から凶作・飢饉が発生したこと、以後は、戦時体制の突入や敗戦による植民地などからの米の移入途絶も相俟って、米の生産調整が行われることは無かった。
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1993年米騒動

1993年(平成5年)に起こった「1993年米騒動」の影響で同年後半から翌1994年にかけて日本国内の米が著しい供給不足(当時よく用いられた表現では「コメ不足」)となり、価格の暴騰・外国産米の緊急輸入などが起きて食糧管理制度の脆弱性に対する非難が増加した。このため、政府による管理を強化する一方、農家でも米を直接販売できるようにするなど、政府はそれまでの方針と異なる方向への運用改善を余儀なくされた。この政府の管理は食管法が廃止される直前の1995年10月まで続けられた
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2007年03月11日

米の歴史 後半

第二次世界大戦の物資不足の時代には、政府より白米禁止令がだされ、玄米(胚芽米)を食べることが義務付けられた。ビタミンB1などの栄養価はあがるが、食味が劣るとして、家庭内で、一升瓶に玄米を入れて、棒で搗き、精白することも行われた。 1940年には、中国や東南アジアからの輸入米(いわゆる外米)を国産米に混ぜて販売することが義務付けられたが、このときの輸入米は精白米であった。

1970年代には、日本で米余り現象がおき、政府備蓄米などに古米、古古米が多く発生し、減反政策が取られた。また、米の消費拡大のために、それまで主食はパンだけであった学校給食に米飯や米の加工品がとりいれられるようになった。古米は、アフリカなどの政府援助にも使われた。

1993年は全国的な米の不作となり、翌年にかけて平成の米騒動が起こったため、タイなどから米の緊急輸入が行われた。インディカ種を食べなれていない人には不評であったが、この時以来煎餅などの加工用の米の輸入が一般化した。
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米の歴史 前半

地球上での米作(稲作)は、原産地の中国・インド・ミャンマーが接している山岳地帯の周辺での陸稲栽培から始まり、まず中国南部、東南アジアへと広まったとされている。その後中国中・北部、南アジアに、そして日本へと伝わった。

稲作は日本においては、縄文時代中期から行われ始めた。これはプラント・オパールや、炭化した籾や米、土器に残る痕跡などからわかる。 縄文時代中期に、中国から台湾、琉球を経て九州南部に伝わり、その後九州北部、中国・四国へと伝わったという説がある。 大々的に水稲栽培が行われ始めたのは、縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてで、各地に水田の遺構が存在する。

米は、日本においては非常に特殊な意味を持ち、長らく税(租・あるいは年貢)として、またある地域の領主や、あるいは単に家の勢力を示す指標としても使われた。これは同じ米を主食とする国でも、日本以外ではほとんど例がない。
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不作の年には一揆も

江戸時代までは、稲の品種改良が進んでいきましたが、災害や害虫に対する知恵は不足しており、虫送りや鳥追い、風祭り、雨乞い(あまごい)という行事で無事を祈るしか方法はありませんでした。それゆえに、災害による凶作の年も多く、餓死者(がししゃ)もつぎつぎと出てきました。 このため、領主に対して反乱をする百姓一揆(いっき)が起こるなど、社会的な不安もまねきました。
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農地拡大と国家勢力

勢力争いの歴史は、稲の品種改良(ひんしゅかいりょう)を進めることになりました。農地を広げるために、稲栽培を稲にむかない寒い土地に少しでも広げようと、奈良朝時代からさかんに東北征伐(せいばつ)がくりかえされました。そして奈良朝末から平安初期にかけての東北征伐は、結果的には稲の品種を改良し、農地を広げたという事業にもなったのです。寒さに強い品種のほかに、いろいろな土地の条件にあう品種が、この時代に開発されて足利時代にはすでに70種類もの品種ができていました。
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米による支配

紀元後3世紀には卑弥呼(ひみこ)を女王とする倭国(わこく)、すなわち邪馬台国(やまたいこく)が誕生しています。このころ、稲作栽培の農業社会もほぼ完成されていたと考えられます。 日本には、稲作農業が始まった古代から、米を中心とする社会ができました。米栽培の共同労働、農村共同体、水の管理から生まれた結(ゆい)という共同体などが、日本の社会のきそともなっています。米は日本人の心の支えとなり、さらに支配する力を持つものにもなっていきました。
また、米は1つの種から7本もの穂ができ、7本のそれぞれに270粒の実がつくので、たいへん多くの収かくができました。このため米を持つものは、富(とみ)と権力をとても早く持てたのです。後には、米の大量生産により、社会的にますます持つ者と持たない者の差が開き、その間の戦いが起きていきました。 米の争奮戦は、そのまま日本の歴史となり、農地(領土)のうばい合いをくりかえす時代が続いたのです。
このように、米は生活と経済の基本でした。武士が天下を支配できたのは、武士が米の生産者でもあったからです。しかし、江戸時代には商人(しょうにん)があらわれ、米相場(こめそうば)を決めて日本のけいざいを支配したのです。以後、日本の文化は町人文化にうつっていきました。

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稲の伝来

稲の伝来は、中国の農学者「丁頴(ていえい)」氏の研究によると、東南中国から台湾、琉球(りゅうきゅう)列島を通って、朝鮮海峡圏(ちょうせんかいきょうけん)に入ったものとされています。
そして日本では、伝来した米の栽培が広まると、豊かになり、文化が高まりました。ちょうどそのころ大陸の文化や政治が変わることによって、はみ出した人と物とが日本にやってきました。 米の生産でよゆうのできていた日本は、高度な大陸文化が入ってきても、それを受け入れることができ、そして弥生(やよい)文化が花開いたのです。
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日本米の起源

日本米の起源は、中国の福建米(ふっけんまい)であろうとされています。日本米を肥料をやらずにほっておくと、やや長く色が赤くなります。日本の原始米は、おそらく赤米だったと考えられます。 赤長米(つまり福建米)が日本で栽培された時期は、約三千年ほど昔の縄文(じょうもん)時代でした。すくなくとも、今の福井県で栽培されていたことまではわかっています。
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